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ルインは、水が怖い。 川に叩き付けられ深く深く沈み込んだとき、苦しくてもがいても抜け出せず、身体がこんなに重いことが信じられず、さらに混乱して溺れてしまった。 村人に引き上げられ助けられたときには意識が無く、けれど冷たく濁音に満たされた水の記憶が色濃くルインに残された。 (あんまり強く落ちたんで、羽根が残らず散ってしまった) 冗談のように、そう、変わってしまった己の姿を顧みつつ、けれどそれ以外変わったように思えない自分自身。それでも。 水は怖い。 「ニード、ひどいわ!泳げないルインをこんな風にいじめるなんて!」 「ち、ちげーって!ちょっと脅かしてやろうかと思って押したら川に落ちて…」 騒動ののち天使界から転落したルインを、ここ、ウォルロ村で保護して世話を焼いてくれたのは心やさしい少女、リッカだった。 村の守護天使と同じ名前(というか本人なのだが)というルインに、いたく感動して瞳を輝かせていた天使信仰の強い少女だ。 そうでなくてもニードに脅かされ川に落ち、深さは腰までしかないというのに見事に溺れてしまったルインが濡れ鼠となってげほごほと咳き込んでいるので、背をさすっていたわってくれる。 「そこまでしてやることねえって!たいしたこと無かったんだから」 あんまりにリッカが、得体の知れないよそ者に優しいものだから。それまで反省の態度を見せリッカをなだめようとしていたニードも気分を害して声をとがらせた。 「本当に溺れちゃうところだったんだよ!ルインにちゃんと謝って!」 「し、知るかよ!俺のせいじゃねえ!」 リッカの声は湿り気を帯び、顔は泣きそうに歪む。 ソレを目の当たりにしつつもニードも、もはや引っ込みがつかなくなっているようだ。 (きくにたえない) 顔に貼り付いた水草を拭いながら、いまだ熱をもつ喉を整えて、ルインは顔を上げた。 (人間が争うのは、見たくないんだ) ぽんっ。 「きゃっ!」 「!!」 花が咲いた。 言い合うふたりの目線の先に、いかにもつくりものめいて、ぶさいくな赤い花が咲いていた。 それはルインの手から。 「げほ、まあまあ、お二人さん。ボクはこの通り無事だよ。溺死体になってニードのところに化けて出る心配もない」 「ル、ルインったら、もう…」 「…びびった…そういやお前旅芸人だったな」 つたない手品だ。即興で身分をごまかすためについた「嘘」が、ここではじめて生きてきた。 ルインは戸惑いながらも、すっかり毒気が抜かれたような顔をしているふたりをにこにこと見つめた。 「ふふふ、ふ、ふへーっくしょい!」 「うわ、きたねっ!オヤジみてーなくしゃみすんなよ!」 「たいへん!急いでお湯を沸かしてくるわ!ルイン、立てる?」 ルインは手を差し出してくるリッカに満面の笑顔を向け、先に行ってと身振りで示す。 リッカの瞳は迷いを見せつつも、一刻も早く家に戻り準備を整えることを選んだようで、そのあとの行動は早かった。 「待ってて!すぐに戻るから!」 幼少時、病弱だったことなど考えられないほど身軽に、リッカは自宅に駆け戻っていった。 「ああよかった、リッカの服が濡れるところだった」 「……お前…」 うまくごまかせたようで胸をなで下ろすルインと、怪訝に目を細めるニードが残された。 本当はまだ足が立たない。肩を借りるような真似は、少女まで濡らしてしまうからどうしても嫌だった。 「お前、女だよな?」 「女だと思うけど、なに?」 不審な目を思い切り浴びても、ルインは動じずきょとんと黄色の瞳をまたたいて見返す。 リッカにたいして異性がするような格好良い気遣い、遠慮?を見せるこの怪しげな少女に、ニードは余分に気を回してしまっていた。 ここまで良くしてくれる相手に、それに報いたいと思うのは当然だろうが、ニードはリッカに関してはどうしても過敏に反応してしまうところがあった。 そしてそれに対して、自覚もしているのだ。 つまるところ、ひどく気まずい思いをしていた。 「あー…悪かったな」 あさってのほうへと呟かれた言葉は、ちゃんとルインまでとどいた。 「うん、ニードが悪い」 まっすぐ、笑顔を向けて告げる。ニードは再び口元を引きつらせた。
「お前、村の守護天使とは全然関係ないんだろ?」 しゃあねえなと悪態をつきながら、ニードはしゃがみ込んだままのルインの腕を取ってリッカの家まで連れて行ってくれた。 ひとの手が温かい。ひえたからだがふるりと反射で震えた。 ニードが、探るような目でルインを見ていて、問いにさて、なんて答えようかと考えを巡らす。 「リッカは守護天使様と同じ名前ってはしゃいでたけどさ、俺はぜってえ信じてねえし。怪しいんだよ。もしかして偽名か?」 「本名だよ。私の名前」 反論するようにルインの言葉はするりと出てきた。久しぶりに自分のことを私と言った。 疑いに対するルインの様子があまりにも必死で、ニードはさすがにばつが悪かった。 「じゃーいいんだよ、つまりお前はただのルインってわけだ」 ただのルイン。ニードが何気なく言い捨てた、その一言が妙に耳に心地が良かった。 ここでは羽根もない、光輪もない、誰が見ても天使と気付く者もいない。 (ボクのことを天使だと知っているのは、ボクだけってことだ) それはすこし、心細いような寂しいような、大きな隠し事を抱える楽しみというか。 天使のルインは今すぐにでも天使界の様子が知りたい、帰りたい帰りたいと望んでいるのに、ただのルインは重い身体を引きずって水に溺れながらも、人の手のひらや温められた飲み物を、もう少し堪能していたいと思うのだ。 (どっちにしても、まだ帰れそうにないんだから…) ただのルインを、やってみよう。 我が師、ちょっとわくわくしてきた不肖の弟子を、不謹慎だと怒りますか。
その時ルインは何の根拠もなく、知る人は皆、自分以外何事も無くいるのだと信じていた。 長老も、ラフェット様も、我が師もいるのだから。 ――――――――ルイン! 呼ばれた我が名と、我が師と、我が師の焦る表情を思い出す。 あんな顔を見せるのは本当にまれで。ああこれは本能に不測の事態なのだと他人事のように、自由のきかない身体を感じながら。 伸ばされた手を掴もうと、ルインは一度伸ばした手を。 自ら引いた。 我が師につきあわせたくなかった。余計なお世話だったかも知れないが、ルインは自分の選択は正しかったなどと思っている。 (羽根が散ったのがボクだけだと良かった) ―――――空を飛べなくなったのは残念だけど。 ルインは本当にそう思うのだ。
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