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イザヤールがそこを通りがかったのは偶然だった。 彼は自らの居住地でもある神殿へ向かう最中であったし、余裕など無いスケジュールを抱えた多忙で有能な上級天使であったのだから。 だから、本来ならば足を止める理由などどこにもなかった。 本人にもあらがいがたい、何かの予兆が胸にあった。イザヤールはつばさを止めると、一度は通り過ぎた場所へときびすを返していた。 そこは、天使として生まれ落ちてそう年月の経ていない、いまだ師をも持たぬ小さな下級天使の託児所、学舎のようなところである。 天使界で知らぬ者のない、上級天使のイザヤールが突然に現れたものだから担当の天使はそれはもう目を丸くして慌てた。 「イザヤール様。このようなところへいかがなさいましたでしょうか」 「いや…すこし気にかかることがあってな」 イザヤールの胸のきざしが、よりいっそう色濃く形をあらわにしてきていた。 それが光り輝くあたたかなものならばこれほどの焦燥感は覚えなかっただろう。 そう、イザヤールはどこか焦り、危機感さえも抱いていた。 彼の気を逸らせ、この場まで足を向かわせる、得体の知れない兆しは、黒くつかみ所が無く、煙のように不確かで、イザヤールに不安こそ与えど期待など抱きようもなかったのだ。 ――――そして、ものの分別も付かない年頃の、個性無くイザヤールを純真な眼差しで見上げる、小さな天使たちのあつまるホールで、それを見つけた。 鮮やかな赤い髪が首にかかるほどで短い、大理石の床ほどに色の白い天使だった。 「小さい…」 イザヤールが思わず呟いてしまったほど、他の天使たちと比べても子の発育の遅さは目に見えた。 身体も、背の羽根も羽ばたくことが不可能と思えるほど。 イザヤールのあとを追ってきた担当の天使が、彼の視線に気がついて相づちを打った。 「ああ、その子はどれだけ経っても、他の子が少しずつ大きくなっているのにたいして成長が特に遅いのです」 うつむいていた頭が、ようやく頭上で話す声に気がついたというように、ゆっくりと上げられた。 イザヤールと目があった。その眼差しは地上の月と遜色ない金のいろで、イザヤールに突き刺さった。 (なんだ) あきらかに、あたりでこちらを不思議そうに伺ってくる、下級天使たちと違うのだ。 この子はイザヤールがなんであるのかを、何を確かめにここへ訪れたのかを知っているかのような、探るような眼差しを向けてきていた。 「お前…」 「申し訳ございません、イザヤール様。この天使は身体だけでなく知能の発育も遅れておりまして、うまれてからずっと言葉を発しないのです。こちらの言葉は理解できている節はあるのですが…」 ――――なんだって? イザヤールは添えられた言葉を訝しんだが、偽りと思ったわけではない。 ただ表情をさらに険しくさせ、その場に片膝をつき幼い子に近寄った。 「私の言葉がわかるか?」 「……」 「口がきけぬのか?あえてきかぬのか?」 「…。…」 すこしのずれはあるが、子は首を振ってイザヤールに応えた。 最初は縦に、次も縦に。最後の問いは、ゆっくりと横に。 「この子はどこか異常があるのでしょうか…私の先輩の上級天使に掛け合おうとはしたのですが、イザヤール様でしたらおわかりになりますか?」 (わかれば苦労はしないのだが) イザヤールが訪問しただけでも十分な驚きであったのに、施設いち問題のある幼天使に目をかけられ、それを咎められるのではと天使は慌てたように問いかけてくる。 もちろんイザヤールにもこの天使が変わっていることは解るのだが、原因など判明しようはずもない。小さな天使の発育に個性が出るなど、天使界ではまずきいたことのない事例である。 「私も、思い当たる節には当たって訪ねてみよう。突然ぶしつけに済まなかった」 「と、とんでもございません!…って、あ、こら!」 イザヤールはその声にようやく気がついて振り返った。赤い髪の天使は、イザヤールの足下まで広がる大きなつばさに手を伸ばし、ふれようとしていた。 「なに、おさない子供のすることだ。そこまで咎めることはないだろう」 「し、しかし…いえ、イザヤール様がそう仰るのでしたら」 手を伸ばし、ふれる直前子供が再びイザヤールを見上げ、その目と目が合う。 ああ、やはりなとイザヤールは思う。 胸に飛来した兆しはこの天使から感じたものだ。黒く、煙のように不確かで、不安ばかりを煽るもの。 ――――けれど、このおさない天使を目にしたとき、イザヤールには別種の戸惑いもうまれていた。 「…また、来ることにしよう」 「はあ、また、でございますか…それはもちろん歓迎いたしますが」 ふと、足下を見下ろしてイザヤールは問いを口に上らせる。となりの天使に尋ねはしたが、声はまっすぐ下に向かっていた。 「この者の名は?」 答えを聞いてイザヤールは苦笑を浮かべた。 誰がつけたのか不明だが、イザヤールの兆しに対する答えを与えられたような気がした。
ルイン。破滅か。 澄んだまなざしを向ける姿は、とてもそんなものには見えないけど。
「意外だった、っていうと語弊かしら。でも、意外だったわ」 ラフェットは繰り返した。イザヤールがおさない天使の集められた施設をはじめて訪ねてから、すこしの時間が過ぎていた。 「あなたは、てっきりもう弟子は取らないんじゃないかと思っていたし、取るにしてももっと見るからに有望そうな弟子を取るんだと思っていた」 (――――あの方みたいな) 最後の言葉は胸にとどめ、ラフェットは昔なじみの膝で眠る、ちいさな、本当に小さな天使を眺めた。 「有能かは、鍛えて見ねば解らぬだろう」 赤い短髪に短い手足。眠る顔はあどけなく、やはりどんな種族でも子供は愛らしくかわいらしく映る。 イザヤールがルインを選んだのは、ラフェットには意外だったのだ。 やはり弟子に取るなら出来のよい子を得たいものだ。自分の後任となるのだから、それを託すべく資質を見抜く必要があった。 また天使は、多少の差はあれ成長するに従って隠された才能が開花する、と言ったことはまれであった。うまれ持ったものはうまれたときから何らかの形で顕現していた。 だからこの天使は、言っては悪いが落ちこぼれ。良くても人並み程度にしか成長が見込めないであろう。 それを、天使界屈指の実力者であるイザヤールが弟子にと選んだというのだから、ちょっとした騒動になった。長老オムイは考えがあってか、それとも黙認であるのか何も言っては来なかった。 「おまえは、やはり見えないか」 イザヤールはぽつりと、眠る弟子の顔を眺めながら呟いた。ラフェットが黙って先を促すので、わずかに言いづらそうではあるが先を続けた。 「私はルインをはじめ、天使界に害をなす禍々しいものと、そうでなくても近しいものとして察知し、辿り着いたのだ」 見つけてみれば、脆弱で言葉も紡げぬおさない天使がイザヤールを見上げてきた。 「だが、この目にしてその意見はまっぷたつに分かれてしまった。ルインの目を見た瞬間」 ラフェットは眼鏡の奥の瞳を怪訝そうに細め、昔なじみの顔にじっと見入った。 イザヤールはやはり、言いづらそうに。 「私にはルインが光り輝いて見えたのだ。やはりお前には、見えぬだろう、ラフェット」 「――――見えないわ」 ラフェットはほぼ即答した。 彼が言うような禍々しい兆しも、まばゆい光の兆しも、小さな天使からは一度も感じることはない。 ラフェットは付き合いだけは長いから、イザヤールが冗談を言ったわけでも、ましてや人間のように甘ったるい感情論に左右されてトチ狂っているわけでもないとわかっていた。 「あなたを欺きたいから姿で惑わすみたいね。あなたが惑わされるわけないけれど」 「本性はやはり、最初に感じたように良くないものであると言うことか。それではまるで悪魔のようだな」 「悪魔みたいよね」 「悪魔なのかも知れぬな」 静かなラフェットの書斎で、ふたりの男女がおさない子を悪魔悪魔と繰り返す。 寝顔は天使そのものなのに。しかし大概悪魔というのは、わかりやすく禍々しい姿をしていないものだ。 「そうであっても、もしそうであるのなら尚更、私の手元に置いておくのが良いかと思ったのだ」 「…なるほどね。そうでなかった場合、問題児に手を焼くことになっちゃうけれど、それで良いの?」 イザヤールのことだ。まさか全くの勘違いと言うことはないだろうけど、ついいじわるを言ってラフェットはにやりと笑う。 イザヤールはむ、と言葉を詰まらせはしたが、その時はその時だ、と潔く頷いた。 師になったばかりのイザヤールの膝で、丸まって眠るひときわ小さな天使は、夢を見るのだろうか。 語らぬ口は、どのような想いを秘めているのだろう、語れば、どのようなおとを紡ぐのだろう。 いつか自身が危惧したとおり、天使界や人間界に災いをもたらすものであるのなら、この手でとどめられるよう、私が見張ろう。 この目でつないでおこう。この者と、世界を。 イザヤールは弟子になったばかりの頭を撫でた。赤い頭は火のようであるが熱くはなく、あたたかで柔らかい。
イザヤールは、破滅の名とはほど遠い穏やかな感慨を皮肉に思う。 ―――――――――――――――――― 最初は月(ルーン)モチーフでつけた名前が、 びっくりするぐらい似合う天使になってました(苦笑
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