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天使界は今日も変わらず遙か天上を漂い、人間界を見守り続ける。 人間界のように劇的な変化や動向もなく、とこしえにも近い時を、静かに静かに。 ただ、そんな壮麗な雰囲気を保つ天使界が、ここ数年はどこか浮き足立つような空気に包まれている。 気が抜けない。気をつけなければならない。 彼の逆鱗に触れぬようにと、皆がぴりぴりとした緊張を抱えていた。 と、いうのも、大天使エルギオスが、ものすごく上機嫌だった。 「おかえりなさいませ、エルギオス様」 「ただいま。ルインは良い子にしていた?」 ナザムの視察から戻ってきたエルギオスは、やはりこれでもかと言うほど笑顔だった。 ずっとこの調子である。この十数年ほど。 新しく、二人目となる弟子、ルインを迎え指導する日々を送るようになって以来。 その名前が出たとたん、出迎えの天使達は引きつった笑みを浮かべ、ええ、良い子でしたよーとか、もちろんですよーとか、口ごもりがちに答えていく。 「そうか、それは良かった。さっそくまた鍛えてあげなくっちゃね」 早速足を向けるエルギオスに、一同の空気が一気に凍った。 「え、エルギオス様!戻られたばかりでお疲れではないですか!」 「グビアナの守護天使がめずらしものを見つけたと仰ってましたよ!」 「いま講堂で若い衆が集まってるんですが、エルギオス様の有り難いお話を拝聴したいと…!」 「うん、全部あとでね」 エルギオスはいつかと違い、とげとげしい拒絶も見せずにこやかに笑いかける。 しかしその口調はあまりにも力が込められていた。 穏やかな語尾で、命令である。 ぴきん、と音がしそうなほど、今度こそ一同の動きが凍った。もはや一歩も動けまい。 そんな彼らを笑顔のまま一瞥し、またねと足取り軽くエルギオスは回廊を進む。 目指すは修練場。下級天使の修行の場であり、出かける前に弟子を置いてきた場所でもあった。 行く先々であれやこれやと天使達の、エルギオスを進ませまいという妨害にあったが、当然天使界の頂点に立つ彼を止められる者などいなかった。 (私とルインの時間を裂こうなんて、無理な話だよ) 鼻歌交じりに歩き続け、やがてエルギオスは笑顔をよりいっそう深めた。 赤い髪を持つ小さな下級天使が、地面に転がって寝ている。 まるで死んでいるようにぴくりとも動かない。背の、やけに小さな羽根もぱたりと垂れて力がない。 「ルイン」 名前を呼べば、ぴくと肩が震え、生きていることが知れた。まあ、エルギオスにはオーラが微量に見えるので生死など確かめるまでもない。 「師の帰還を寝て迎えるとは不遜だな」 言葉ほど咎める様子はなく、エルギオスは弟子の側まで近づくと伏せられた頭をつんと小突いた。 「ルイン、起きなさい」 命令だ。 小さな頭が、地面に擦れながら上がり、閉じていた瞳が開かれエルギオスを認めた。 光の加減で金にみえる目で、エルギオスの二番弟子ルインは師匠をしばらく眺めた。 「…師匠、心底眠たいです」 「大袈裟だなルインは。剣の素振りを日中夜続けただけだろう」 「……師匠の無茶振りにびっくり」 「びっくりした割りに頑張ったんだろう?おまえは人より才覚が劣るから、万倍も億倍も努力をしないと私のようにはなれないからね」 半分眠りながら再び地面に沈む弟子の頭を、エルギオスは満足そうに一通り撫でてやって、完全回復呪文のベホマを唱えた。 「……」 「これでちょっとは元気が出ただろう?さっ、次の修行だ。お前と来たらこれだけ手をかけてやってもあんまり成果が伸びないのだから、休んでいる時間はないよ?」 ルインは、表情に乏しい顔を、もともと色が白いのにさらに白くさせて呟いた。 「むしろ自分が死なないことにびっくり」 「バカな子だね。天使がそんな簡単に死ぬわけがないだろう」 エルギオスは朗らかに笑う。 小さなルインは何とか立ち上がると、格の違いすぎる師であるところのエルギオスを、細めた目で見上げる。 「なんだい、ルイン?」 「…師匠、お疲れ。おかえりなさい」 「―――ただいま、ルイン」 そしてエルギオスは嬉々として、弟子のしごきに励むのだ。
ルインはその時、本当に小さな天使で、下級天使の中でも出来の悪さが危ぶまれる子供だった。 体格も羽根も小さい。身体も不丈夫と来て、本当に大人の天使になれるのかと、欠陥を疑うほどだった。 オムイの薦めで二番弟子を取ることを決めたエルギオスが、そんな子を選んだ。 当時はやはり騒ぎになった。将来性のない天使を天才エルギオスが育てることに何の意味があるのかと。 「私が育てるよ、天使界に貢献するすばらしい天使にね」 結局、彼の真意は測れないがこの一言で、いつも通り押し通されてしまった。 天使界のごく一部のものにしか、エルギオスの真意など知り得ない。 「ルインはあなたの玩具ではない」 ここまで真っ向に異を唱えてくるのは、一番弟子のイザヤールはじめ、ほんの一握りのものだけだ。 今日の修行にエルギオスが満足したので、ルインは気絶するように寝入っている。 その寝顔を眉をひそめ見つめたイザヤールが、弾劾の意志もあらわにエルギオスを詰ったのだった。 「もちろん玩具などではないさ」 「しかし楽しんでおられるようだ」 「楽しんでいるさ、そりゃあ」 「エルギオス様!」 お茶を飲みながら、のらくらと答えを寄越すエルギオスの態度にイザヤールはじとりと睨みをきかせた。 「私はいたって真面目だよ?本当にルインを立派な強い天使にしてあげたいんだ。でもなっかなか伸びないんだ」 「ルインとあなたでは違いすぎる。私とあなたが違ったように」 でもイザヤールはちゃんと伸びたじゃないか、とでも続きそうな師の言葉を先んじて、早口で続ける。 「努力ではどうしようもないことがあります。ルインはあなたほどにはならない」 言葉を切ると、イザヤールはエルギオスを真っ向から見つめる。それは縋るように切実でもある。 「いつか本当に死にかねません、ルインは弱いんです」 ―――――でもルインは頑張るのだ。 頑張ってしまう。色々口で言いはするが、真面目な子だ。 泣きもせず、逃げもせず、倒れてからだが動かなくなるまで頑張ってしまう。 (師の期待に、応えたいがために) 自分にも覚えのある心境だから解る。本人の意思を尊重してやりたいが、師のやり方は行き過ぎである。 (…エルギオス様も、私の時に増して構い過ぎている) 弟子の成長が嬉しい、自分が手をかけることで育っていくのが楽しい、その思いが強すぎるのか、エルギオスの指導は基本的に熾烈を極めている。 スパルタだ。見るものが見れば虐待。拷問だ。 (私は耐えきった。まあ、うん、いま思い出しても辛くはあったが…) 「それにルインは女の子です」 「だから弱いまででいいと?」 朗らかだった口調が様変わりして、それとこれとは、と応えようとしたイザヤールの舌は喉に貼り付くように動かなかった。 「ダメだよ、イザヤール。それではダメだ。ルインは強くならなければ。強くあらねば。私の弟子なのだから」 もし、私の弟子で無くってもね。続く呟きにイザヤールはふがいなさに苛まれ目を伏せる。 通じない。伝わらない。 やっても出来ない。自分と他のものは違うのだ、と、解っているはずなのに、エルギオスはそれをけして真に理解してはいない。 これまで何度もこういうやりとりを交わし、それでも説得は師の方針を変えるまでに至らなかった。 (やはりこれまで通り、私が手を尽くしてルインを護るしかないのか) それにしても限度はあったし、今日のようにすべてが終わった後ということもめずらしくはない。 幼少時のイザヤールよりずっと平凡で身体も華奢な妹弟子の、明日の命を危惧する日々だ。冗談ごとではなく。 「……とにかく、厳しすぎます。もう少し、その、優しくしてあげて下さい」 もし自分がそうされていたらむず痒い思いがしただろう、あえてかみ砕いた言葉で進言すると、エルギオスはきょとんとした。 「そんなことをしたらルインが私のことを好きになってしまうじゃないか」 (……何を言ってるんだこのひとは) イザヤールは心底脱力して溜息をついた。
「イザ兄(にい)」 呼ばれて気がついた、という己にわずかに狼狽しながら、イザヤールは声の方向に振り向いた。 小さな身体と赤い髪。めずらしい特徴的な姿の下級天使が片足を引きずるようにしてやってきた。 イザヤールの、というか天使界で唯一の二番弟子、妹弟子になるルインだ。 (驚いたな、ずいぶんと気配を消すのが上達した) それを誉めてやろうかと思ったのだが、小さな子供の様子に眉をひそめるのが先になった。 「足が悪いのか」 「羽根ばかり使うと足が弱るから、天使界を裸足でランニングだよ」 天使界の地続きは限られるといえど、敷地は膨大である。イザヤールは露骨に顔をしかめ、身をかがめると妹弟子をひょいと抱き上げる。 (中身が入ってないような軽さだ) この妹弟子は見るたび痛々しくなっていく。スパルタ指導の成果はまったくの無意味ではないようではあるが…。 「イザ兄。ボク歩けるよ?」 「なに。私も重りを持って歩けばいくらか鍛錬になる」 そう言えばもう何も言わずに身体をイザヤールの胸へと持たせてくる。包むように抱きしめてやる。 不憫でならない以上に、この素直で頑固な妹弟子を、イザヤールは愛しく思っていた。 「つらくはないか。きちんと食べているか」 「つらいよー、本当につらいからごはんなんてろくに喉を通らない」 妹弟子はすらすらと、屈託無く弱音を連ねる。その口調は淡々としていて悲壮感など欠片もない。 (こういう子だ) 嘘ではなく本音だろう。しかしその口調は正常な心の動きとはどうしても思えず、イザヤールをもどかしい気持ちにさせる。子供は痛苦に対して鈍感なところがあった。 何事もないような顔をしている。けれどそれは、いつしか自然と身に付いた本能の防衛策からかも知れなかった。 同じ調子で、今日は何が出来なかった、出来るようになった、と、イザヤールに教えてくれる。 「あとね、今日の師匠はすこし機嫌が良かった」 そして明るくそのまま、エルギオスの話題を口にするのだ。 「…おまえは、エルギオス様が好きか」 「うん。いいかげんにしろこのクソ師匠とは毎日思うけど」 にこにこと言うのだ。 いや、本当に心からの笑顔で。実は腹の底に耐えかねているものがあるにしても。 「……私も、以前は同じだったよ。師を尊敬していたし、一心に憧れていたものだ」 「……いまはちがうの」 光を弾いて金に映える大きな瞳が、イザヤールの目をのぞき込んでくる。 ぼさぼさに乱れてしまっている髪を指で撫でつけてやりながら、思わず苦笑が漏れた。 「おまえがこんな姿をしているからな、解らない」 「ボクのせい?」 「何故そうなる。…あの方の考えが、以前よりさらに解らなくなってしまったのだ」 ルインを抱きかかえたままでは、イザヤールの表情は筒抜けだ。だから彼はあえて表情を消して語る。 愛されていることは解る。 あの方は、私を、私たちを愛しておられる。 けれど、なぜ。ならば、なぜ、と。 昔にはなかった、少なくともイザヤールは感じることがなかったエルギオスの歪みを、いまは確かに感じている。 「イザヤールには解らないの」 つぶやくように、ルインが唐突に言った。 この子供はふと、大胆にも上級天使すら名前で呼び捨てる癖があった。 言い聞かせたので回数は減ったし、今は気安さのあるイザヤールのこともごくたまにしか呼ばないが。 「そっか、そうだよね。うん。たぶん、師匠とボクの方が似てると思う」 「……似てなど無い」 幼子の言葉が、力のことを言うのではないとイザヤールにもわかる。 けれどとっさに出た反論は、己は似ていないといわれた疎外感からだろうか。 しかし、ルインは違う。傷ついたからだと羽根を震わせ、イザヤールの服の袖を掴んで離さない、この妹弟子とエルギオスは違う。 「ルインには、解るか。あの方の抱えるものが」 「確かなものかは、わからないけど。ときどき、感じる。うん」 自分の、不透明な考えを探り確かめるように首を巡らせて、ルインはひとつ瞬きをした。 「だからかなあ、頑張らなくちゃって思うんだよ。死ねないなあって」 「…あまり、無茶をするな。私の寿命が縮まるから」 イザ兄の神経がそんなに繊細なわけが無いじゃない、と生意気な口を叩くので、普段なら小突くくらいはするが、これ以上痛みを与える気はとても無かったので、苦笑するだけに留めた。 (エルギオス様にはこの子がどうしても必要なのか) ―――――悲しく思う。 それは妹弟子の終わりの見えない苦難の日々に対してかも知れないし、 師の一番の関心はもはや自分にないのだ、という寂しさかも知れず、 出来ることの何もない無力感からかも知れない。あるいはすべて。
(私が抱えている間、ルインは誰にも傷つけられない) そして、また、師に対する憤りともつかず嫉妬のような。
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